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アート 建築

新里明士から三越を経由して猪熊弦一郎、谷口吉生から街づくりまで。②

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左から、新里明士氏葉書、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館開館30周年記念冊子、間島領一氏カタログ
重要なお知らせがある。

 猪熊弦一郎氏は丸亀市の生まれだが、実は大田区田園調布にそのアトリエを構えていたこと。それが吉村順三氏の設計であったことも凄いが、すぐ裏手に谷口吉郎、吉生親子が住んでいたことも凄い。

 そしてかつて、大田区で在住アーティストを中心に、猪熊氏の美術館をつくろうという運動があったことだ。(実現しなかった事は本当に悔しい。かく言う弊社が大田区田園調布にあるからだ)
 これがフジタだったら変わっていたのだろうか。ネームやブランドという意味で言っているのだが、私はフジタよりイノクマが好きだ。言語化しやすい美よりも、積層的な感情や価値観に美を見るからだ。
猪熊弦一郎 リトグラフ『石の会話』
大田区在住のアーティスト、間島領一氏は、小さい頃に絵を見てもらっていたそうだ。約束の時間に二階の応接間に行くと、「この少年との約束の時間だから」と言って、NHKのスタッフ達を帰したそうだ。

 谷口吉郎氏に関しては、慶應義塾幼稚舎に通っていた経験から、天井が低い建築物は苦手だが、東京會舘などは好きだった。「あの猪熊氏の壁面タイルはどこに行ってしまったのだろう」といつも思っている。
 谷口吉生氏は非の打ち所がない建築をコンスタントに残しているが、中でも丸亀市猪熊弦一郎現代美術館は格別だ。
 猪熊弦一郎氏の美術館イメージを、30周年記念冊子の氏の発言より引用させて頂く。

 “美術館は(中略)人々が生活する街の中にあって、エネルギーを与えるところです。子どもや若者、買い物帰りの主婦などが気軽に訪れる、(中略)『まちと一体になった楽しい美術館』が本当の美術館だと思います。”

 正にそのための建築であり、実際にそのように機能している。
 谷口吉生の功績はそれだけでなく、幼少期からの関係性もあったのであろうが、巨大タイル画の中央上部に施されるはずだったタイル絵に施される予定だった描写を全て削ってしまったのだ。
(原画をみると、確かに建築的にはその部分が重いのだが、当時の猪熊弦一郎氏に対してそんな事ができたのは絶対に谷口吉生氏以外いないと思う)

 丸亀市における猪熊弦一郎美術館と、三越における催事場の役割がなんとなく重なったので、つらつらと書かせて頂いた。

この記事の著者

田中 悠貴

1983年12月16日生まれ。慶應大学総合政策学部、福田和也研究室卒業。建築業・ビル業に従事する傍ら、アートイベントの運営に携わる。以降、暮らしや生活、文化の向上を目指し、株式会社ANTI-ICONを立ち上げる。

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