東直子インタヴュー⑩花々は色あせるのね
「現代短歌版」という難しさ
現代短歌版、と言えるのは、東直子さんが現代短歌の旗手の一人だからである。俵万智のみだれ髪ですら、「チョコレート語訳」と名づけていた。
つまり、単純な翻訳で57577に訳したわけではないということだ。
加えて、現代語でなければ百人一首のままで良くなってしまうので、現代語で書かれているわけだが、これがかなりの曲者である。古語に由来する現代語があったり、古語がそのまま文章語として現代でも使われているケースがいくらでもあるからだ。
①現代短歌として成立していなければならない
②ほぼ完全に現代語でなければいけない(古文的活用をしてはならない)
という2つの条件を100首全てで満たすというのは、短歌に対してよほど本気で意識し続けてきた人間でなければ出来ない、名乗れないことなのだ。
東直子著『現代語版百人一首-花々は色あせるのね』
まず、気になったのが11番の参議篁の「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと/人には告げよ海人の釣船」に対しての現代語版。
・海原のかぞえきれない島々へ漕ぎ出した、そう伝えよ釣舟
(東直子『現代語版百人一首-花々は色あせるのね』(以降書名省略)p.26)
「57577を含めた複数のリズムを内包させることで、一首に韻律的重層性を持たせる」という理由から句跨りが使われている、まさに現代短歌的短歌だ。このリズム感は、ニューウェーブと呼ばれたポスト・モダン短歌にも受け継がれた。
「内容は、きちんと寄り添いたかった」
という東さん。
と同時に、柿本人麿の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を日ひとりかも寝む」を例に、「百人一首ってリズムだけで内容がほとんど無い歌が多いんですよね」と。
しかし、だからこそそのリズムをいかに現代語で埋めるのか腕が問われただろう。
現代短歌における句読点の扱い
「私は短歌の実作を行わないので(この時点では本当に行っていなかった)良くわからないのですが、現代短歌には句点(。)や読点(、)がよく使われると思うのですが、違いはなんですか?俳句では最近でもまず見かけないと感じている分、現代短歌の人は割と使っいる印象があるけれど、はっきりとした読み方はわかっていないんです」
これは本当に、実作を始めた今でも良くわかっていない。
「句点は読点に比べてかなり攻めている感じで、読点は割とあって、次にクエスチョンマークとかもあって、多分句点が一番少ないんじゃないかな。実験的な感触がする。読点は、流れは止めない。跳ぶために一旦しゃがむような、一瞬の息継ぎのような。一字空けは少し止まる感じ。音が止む、休符ですよね。」
… Maybe the next is last.